スピリチュアルな本に学ぶ、この世のあれこれ。その①
こんにちは、おひとりさまです。
今日はちょっと久しぶりの読書感想文を綴りたいなと思います。
今回ご紹介するのはこちら。本の表紙撮るの忘れたのでネットからひっぱってきました。
さて早速本題。私が共感した文章はこちら。
この文章、もう全てに共感。
私は中学時代、祖母から暴力を受けて育ちましたが、まさにその加害者の祖母がこの感じだったんですね。
喧嘩をするといつも「○○してあげたのに!」と言われましたが
元々私はそんな事頼んでもいません。
まだ中学生(「もう中学生」みたいw)の私、金もなければ物欲もなく
興味があったのは服くらいなもんで
あれが欲しい!とかねだったりすることすら無かったんですね。
なのに祖母はキレると必ずやこの言葉を言ってきました。そして当時「頼んでもないじゃん」「だったら何もしなくていいよ」って言ったこともあります。なんとませたガキなんだろうと今なら思います。笑
でもここにも書いてあるように実はエネルギーレベルで依存しているのかもしれません。
目には見えないけれど確かにある。
執着している方も依存している可能性があるし、何かをしてもらう側もなんだかんだで依存しているのかもしれない。
当時を振り返ってみてもまぁ義務教育中の子供なんかやっぱり無力なわけで。
金とか物理的要素はやっぱり大人に頼らざるを得ないというのも常々思ってはいたので
エネルギーレベルでの依存があったとしても否定できませんね。笑
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私はいつだったか人に「執着がない」とか「空気のようだ」とか「飄々としている」と言われたことがありますが
確かに「○○してあげたのに」と言ったことも思ったこともありません。
今考えてもやはり執着がある人と快適な関係というのは築けません。
画像にもありますが違うと思ったら
「NOを言うのも大事」です。これほんと。
それは、この本の言葉を借りれば
「“特別な関係”になって、エネルギーレベルで縛られてしまう」から。
「嫌だって言いたいけど、でも情けが…」とか思う時点でこの本で言う「特別な関係」そのもの。
友人であれ夫婦であれ恋人であれ
何か上手くいかない、というのは
元を正せば大体この「執着」や「依存」
が原因の事が極めて多いです。
これが「共依存」なんかになってようもんならもう大変。どう考えても上手く行かないのは必至。
愛と執着は紙一重?
執着しているから愛なのか?
愛しているから執着しているのか?
執着がないから愛がない?
愛がないから執着がない?
そのどれもが私は違うと思います。
愛はあくまでも愛。
執着がなく
この本でいう「さらりとして、自立した、聖なる関係」こそが本当の人間関係の基礎だと思います。自立と愛は両立可能。
自立した大人が同じ方向を見てこそ
本当の人間関係。
どうせ特別な関係ならば
お互いに快適な関係を維持出来る
良い意味での「特別な関係」の方が
いいに決まってる。
私はよくwin-winの関係が大事と
人に言ってはいますが
その基礎が、「執着がないこと」かなあと。
いつでも自然体で笑っていられる、そんな関係性の人が周りに増えたら
きっと人生って楽しい。
執着しない、依存しないって
きっととても難しいことなんだろうけれど
今、人間関係で苦しい人は
きっと今はそれを学ぶ為のカルマの時期かもしれません。
ゆっくりと時間を掛けて
でも確実に、取り組んでいきたいですね。
そんな訳で今日も最後までお付き合い頂いてありがとうございました(っ´ω`c)
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